僕の原点とこれからのこと①

●ブログ「八木拓真の伊那日記」2013.4.8より転載

今日は少し長くなりますが、僕の原点と伊那への思いをお伝えしたいと思います。

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中央アルプスの山すそに位置する伊那市西箕輪。信大農学部の学生時代に、僕はここで農家の離れを借りて住んでました。

写真右下の茶色い屋根がその離れです。元は蚕(カイコ)を飼っていた小屋だったそうで、すきま風ピューピューの家でした。でも、写真ではわかりづらいですが正面には南アルプスが広がり、夜はキツネの声が聞こえる静けさや、満天の星空が拝める環境が大好きでした。

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玄関への階段。酔っぱらって何度転げ落ちたことか…(笑)。
台所とトイレの「小」はありましたが、風呂と「大」は母屋に借りにいくスタイル。家賃は夏が1万6千円、冬が1万2千円でした。
大家のおばあちゃんは、湯船を若い男子と共有するのが恥ずかしかったらしい。「使うのはシャワーだけにして」との要望で、「冬は寒いから週に2回くらい銭湯に行きたいでしょ。だからその分安くしとくから」…ということで季節変動制の家賃になったわけです。

隣近所と離れている「宴会しろ!」と言わんばかりの環境。どれだけここで仲間と馬鹿騒ぎしたことか。
大家のおばあちゃんは、広い母屋に1人で暮らしていました。
先週、久々に会いに行ってきました。

お茶目でめちゃくちゃ元気だったおばあちゃん。
だいぶん弱ってしまって少し切なかったけど、ちゃんと覚えてくれていました。

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10年前、産経新聞社の入社試験を受けた際、1次の筆記試験の小論文で僕はおばあちゃんのことを書きました。

与えられたテーマは「ニッポンの家族」。
大学卒業後も就職せず、伊那でプータロー生活を送っていた僕。それ以前にも新聞社を受けたことはあったものの、何の受験準備もせずに挑んで小論文で書くことがまったく思いつかず、投げ出して途中で帰ってしまったこともありました(笑)。でもこのときは論文の神様が降りてきた。一気に書きました。

当時おばあちゃんは毎年毎年、雪が消えると家の前の畑を耕し始めました。
でもダイコンやトマトができても収穫するわけでもない。
「八木さん、好きなだけ採って食べていいでね」というおばあちゃんに、僕は「採らないのになんで作るの?」と聞いたことがありました。おばあちゃんは「お金にはなんないけど、ずっと百姓してきたから、春になったら体が勝手に動くからね」と口にしました。
1人暮らしだからといってさみしそうなそぶりは見せなかったけど、離れが3つもある農家はおばあちゃんには大きすぎるように見えた。周辺も高齢化がすさまじく、過疎の危機を肌で感じていました。
僕は大阪の泉北ニュータウンで育ちましたが、地方から人が流れ込む都会にも人間関係の希薄さと過密ゆえの問題が多々あると当時から思っていました。それでも若者は地方からどんどん都会へと出ていく。
農林漁業や伝統文化を守ってきた地方が衰退し、田畑を守り続けてきたお年寄りが孤独になるこの国の現状への思いを、原稿用紙3枚分に書きました。

伊那で暮らし、東京をはじめとする都市部偏重の激しいこの国の問題点を地方からの視点で実感したことは、僕の原点になっています。新聞記者になり、各地で衰退する地域の活性化に奮闘する人と多く出会えたのも、伊那での経験からそんな現場に興味があったからこそです。そんな人たちから受けた影響は大きかった。僕もいつか同じように伊那で街の活性化に取り組みたいという思いが、常に頭の片隅にありました。

伊那では、本当に仲間に恵まれました。車を改造し、当時流行っていた「走り屋」として地元の若い奴らと徹底的に遊び、そのためのお金を稼ぐためにコンビニやガソリンスタンドやお祭りのテキ屋で一生懸命働きました。勉強はほとんどしなかったけど、そんな日々から人として大切なことを教わった気がします。
あの元カイコ小屋で過ごした時間がなければ、大阪でずっと記者を続けていたかもしれない。いつか伊那に帰ろうとの思いを持ち続けることができたのは、人間関係が濃密で美しい自然に恵まれてゆったりと時間が流れる田舎に多感な時代に身を置き、地方が持つ魅力に気づくことができたからです。

「いつか帰ろう」と思える場所があることは、人を強くする。ニュータウン育ちで故郷と呼べるものがなかった僕にとって、伊那はかけがえのない場所でした。

1回では書ききれないですね…
地方都市・伊那にとって大切だと思うことは次回に書かせてください。